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2011年5月23日 (月)

ビートルズ研究とビートルズ学

先日書いたことの続きになるかもしれませんが、「ビートルズ研究」とは一括りにできないもので、学問レベルのものと趣味として楽しむレベルのものがあるのは事実です。(昨日、楽しみから「研究」に発展する旨のことを書きましたが) 研究が学問としての内容に相応しいか、趣味レベルで終わってしまうか、そこにはある程度の境界はあってしかるべきなのかもしれません。日本でビートルズが学問としてあまり発展していないのは、趣味レベルのものがほとんどであるからなのかもしれません。今自分が行っていることも「趣味」のレベルを脱していないと白状致します。あまり大袈裟に「学問である」というのもおこがましいと思っていますので、「趣味」の領域に逃げてしまっているのだと自分では思っています。「学」とつけるためには、その下地になるものが必要です(ビートルズが日本に及ぼした影響を論ずるには、当時の社会世相を社会学、経済学、政治学、歴史学などを通じて解析していくことが必要になってくるかもしれません)。軽い「ノリ」で「学」を付けるならばそれはそれでいいとは思うのですが、私は軽い気持ちでは自分のやろうとしていることを「ビートルズ学」とはなかなか銘打てないのが本心です。

昨日、「ビートルズ研究」を揶揄している人がいるということを書きましたが、それは趣味レベルの「○○年にジョージが××へ行った」といった事実探求的なものを批判しているようです。そんなことやって何になるのかということのようですが。確かにそれだけでは価値のある「研究」と言えるかどうか疑問ですが、「○○年にジョージが××へ行って、その結果、△△という曲が生まれて若者に影響を与え、現在~という形で残っている」というところまで言及するならば「研究」と言えるかもしれません。

今回のTEA PARTYで発表したジョン・レノンの「草庵」に関しても同じことが言えます。事実の羅列だけでは「研究」になりません。私は「ジョン・レノンという人が約束を守って、日本の文化を大切に扱ってくれた印がこの草庵である」という結論を導いて行ったのですが、これでもまだ足りないと思います。「ジョンが日本文化の○○に傾倒し、草庵の建築を計画し、そこで××を目指そうとした。それには△△という意味があった」くらいまでに持って行かなければならないと思います。でもそれはヨーコさんのみが知ることかもしれませんが。またこんなことを書くと、すぐインタビューをして聞き出そうとする人が出てくるかも。(笑)

音楽、人物を研究するということは、興味のない人にとっては単なる「覗き見」としか映らないかもしれませんが、私は立派な学問になると思います。それを否定されてしまったら、今存在する学問で意味を失ってしまうものは多いのではないでしょうか。また「ポールやリンゴのように生きている人のことを研究するのはおかしい」という意見もあったのですが、例えば今、村上春樹を研究している人は大勢いらっしゃると思います。それも無駄だということになってしまいます。亡くなった人、古いものしか研究の対象にならないとしたら、学問はつまらないものになってしまうと思います。

趣味レベルの「研究」を「うざい」と思う人は多いかもしれません。でもその積み重ねで「学」が成り立つこともあるので決して無視できないものであると考えます。積み重ね作業によって高度のレベルの結果がもたらされることが実際にあるからです。以前、ブログ仲間のまさむねさんがご自身のブログ『一本気新聞』で「さかなクン」を例にあげて詳しく論じておられました。間違ったことをいつまでも正しいと思いこんでしまうことは危険ですが、正しいことの積み重ねを続けていくと、高いレベルに到達することもあるというお手本がさかなクンだと思うのです。多くの人にとって無駄だと思われることからでも、実際には大変意味のあることが導き出される場合があることを忘れてはいけないでしょう。

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